日本硬質陶器釜山工場跡地 かつてそこは日本だった

釜山港からロッテデパートを右手に見て影島に渡ると目の前にマンション群が見えてきます

1917年~1945年、そのマンション群の敷地に日本硬質陶器(現NIKKO)の工場がありました

17,000坪あまりの敷地に800人程の人々が働いていたそうです

・ライジングサン石油株式会社と書かれている場所が現在のホームプラス

・当時の工場の様子


1917年(大正 6年) 釜山に「朝鮮硬質陶器株式会社」として姉妹会社の本社・工場を設立

1920年(大正 9年) 両社を合併して社名を日本硬質陶器株式会社とする

1925年(大正14年) 釜山で水産業を営んでいた香椎源太郎が社長に就任

             本社を釜山の牧の島(影島)に移し、金沢は支社となる

会社の使用職工は九分以上鮮人である

かって香椎社長が就任の挨拶をなしたるにその言句は一句一句に熱心が発露せられたので

一同はこれに感激し将来は一段の努力を誓いたるので

目下昼夜兼行で全社員こぞって復興に余念がないのである、

(~京城日報より~)

社員の9割は地元の人で

鮮人開発上有益なりとて種々の特典を与うる事となれる

(金沢電報)

と朝鮮総督府は考えていたようです


・チマバジエ姿で陶器を作る人々


東亜日報によると

1929年  8.16 60人の警察が出動する賃金引き上げのストライキがあり230名の職人のうち150人が停職

1930年 10.6 不況の為79名(内31名女性)を解雇

      10.7 11人の職人を1週間分の手当てを与え解雇

などの記事があり斎藤総督から直々会社を任された香椎源太郎氏の工場運営の軌跡がうかがえます


・日本硬質陶器釜山 正門

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